ある素晴らしい女性の話

わたしの友人A子がフリーエディターをやめて、ある生命保険会社に就職しました。


彼女によると次の3点などが、その決心を生んだそうです。


1.大手生命保険会社が「職域専門のコンサルティング・セールス要員として、大卒・短大卒女性の中途採用=特別育成方式」を始めたこと。


彼女は「新聞広告で『30歳以上の大卒・短大卒女性』という求人を見たとき、日本で初めてじゃないかと、びっくりし、興味を持った」といいます。


2.新方式を始めたある生保会社の人に会ったところ、彼女の年金問題についての執筆なども知っており、「これまでの理論的研究を、実地でためしてみませんか」と誘われたこと。


そもそも新方式が、職域の顧客が年金制度や金融資産形成についての関心を強く持つようになり、従来の「主婦セールスマン」では対応が困難になったためにつくられたとの説明も、彼女の知的好奇心を刺激した。


3.そして最後に、「私自身の老後設計を考えたことね」とA子は語ります。


フリーエディターとしてはベテランだったので、「選り好みしなければ仕事はあり、2年に1度くらいは海外旅行もできる」が、「退職金があるわけでもないし、国民年金だけでは将来が不安」なのです。


このさい「10年ほど勤めて、老後プランを確実にしたい」という計算が、彼女を踏み切らせました。


特別育成コースでの研修から、営業所での勤務、さらに同じコースに入ってくる後輩の指導・育成と、マスコミの世界しか知らなかった彼女にとって、やさしい道ではありませんでしたが、持ち前の熱心さで課題をこなし、顧客の信頼も得るに至りました。


中年からのスタートですから、どこまで昇進できるかはわかりませんが、女性が主体の職場で頼りになる「上司」であり、男性管理職と肩を並べる「同輩」の立場を固めつつあります。


しかも「実務派リブ」の気概は失わずに…。


こういう女性の存在は派遣 千葉で働く女性たちに勇気を与えると思うのです。

移民とその暮らし 8

1860年代が始まるころには、ビクトリアとニューサウスウェールズのゴールドラッシュもその終幕を告げていました。


その後の10年間は、クイーンズランドと西オーストラリアでも金鉱が発見され、再び人々に一攫千金の夢を与えることとなります。


しかし、1850年代のゴールドラッシュ世代の人々でさえ、首尾よく金持ちになれた人々はごく少数にとどまりました。


こうした中で、てっとり早く金持ちになるため、山賊に転向する者も現れました。


カナダのハミルトンで生まれたジョン・ギルバートは、1852年に家族ともどもオーストラリアの土を踏みました。


しばらくの間、金産地でのらくらくとした生活を続けていましたが、その後ギルバートはニューサウスウェールズの山賊、フランク・ガーディナーの仲間に加わることになります。


数年の歳月が流れ、数々の追いはぎ、強奪を重ねた挙句の1865年、彼は警官の撃った弾丸に倒れました。


金産地での成果の如何にかかわらず、英国生まれの移民のほとんどは、2度と祖国の土を踏もうとしませんでした。


彼らは植民地オーストラリアの、様々な土地へ移っていきますが、ビクトリアではとりわけその影響力が強かったようです。

移民とその暮らし 7

故国に戻った中国人は、オーストラリア人との間に、アジア人排斥にむけての堅い決意という置き土産を残しました。


ビクトリア立法議会議員の発言は、人々から歓呼の声で迎えられました。


「純粋な白人の血が流れ、英語を話し、自らを誇りに思い、豊かで影響力のある国家としての地位を保つことができる法や制度を有する何百万という人々が、この大陸にあふれる日々が来たらんことを、私は予感する。


植民地がイングランド人国家としてその偉大さを保ち続けられるか、何百万という中国人の前哨地に成り下がるかの決断は、ひとえに当議会の決断にかかっているのである」。


オーストラリア人心理のなかには、異民族の侵入に対する非常に大きな恐怖感が存在していました。


この恐怖感はその後1世紀以上にわたって残ることになるのです。

移民とその暮らし 6

1850年代、ビクトリア州政府は植民地に流れ込む中国人の数を抑えようと試みましたが、結局失敗に終わっています。


こうした規制からはかろうじて逃れても、多くの中国人は他の採掘者から肉体的攻撃を加えられました。


これに対し、中国人社会のリーダーは、抗議の声を上げます。


「我々は、ヨーロッパ入の口車に乗せられ、故国には望めぬ繁栄を求め、またオーストラリア法の下に保護されるという保証の下に、祖国を後にした。


ところがこうした話と裏腹に、我々は到着以来、無教養で残酷、かつ悪意に満ちた人々により、数々の侮辱、虐待を加えられている」。


最終的に、ほとんどの中国人は帰国の途に就くことになりました。


1881年までに、ビクトリア在住の中国人の数は、わずか1万2000人にまで減少しました。


しかしゴールドラッシュで富を築いたアー・マイを含む数人は、大成功を収めることができました。


マイはメルボルン中国人社会のリーダーを務めるかたわら、有力商人、鉱山主、工場経営者、土地相場士としての地位を築き上げていきました。

移民とその暮らし 5

中国系移民団の規模が大きかったため、英国人やオーストラリア生まれの人々は、文化、経済面の不安を感じていました。


中国人はだぶだぶのズボンをはき、他の金鉱夫達の経済状態を脅かすなど、紳士にもとるふるまいを重ねていると、非難を受けていました。

1859年までにはビクトリア人口の8%が中国人で占められ、植民地の男性人口の20%にまで達していました。


そのほとんどは海岸沿いの広東州出身者でしたが、広東の男性は海外に出稼ぎに行くことが習わしとなっていました。


ルイス・アー・マイは建設業者との契約に基き、大工として1851年、メルボルンにやって来ます。


その後、彼の手紙により金が発見されたというニュースが広東の兄弟に知らされ、これがもとで何千人という広東人がビクトリアの金鉱に移住することになったと伝えられています。

移民とその暮らし 4

アメリカの自由市民コブは、天53年に数多くの同郷出身者と共にメルボルンに渡り、輸出業界にコブ商会を設立しました。


3年後コブは商売を人手に渡して帰国の途につきましたが、その名をオーストラリア史上の伝説としてとどめることになります。


1848年故国で革命が起こって亡命したハンガリー人、ジギスムント・ウェキーは補助を受けた移民として、1854年にオーストラリアに到着しました。


1850年代、1860年代を通じ、彼はビクトリア哲学学会の書記としてメルボルン知識界に多大な貢献を果たし続けました。


ウェキーの交友関係は多岐にわたり、鉱山の管理にもあたりましたが、特許権をめぐる論争にまき込まれ、ブタペストに戻ります。


その後1889年、彼は世を去りました。


英国人以外の集団の中で最大規模を誇っていたのは中国人社会です。


英国系以外の欧米系移民は英国系移民、オーストラリア生まれの人々と、ほとんど変わらぬ扱いを受けていました。


しかし中国人達は人々に憎まれ、また軽蔑されていました。


移民とその暮らし 3

植民地での女性家事労働者の価値が高かったのは、金の発見により、もともと不均衡であった男女の比率がさらにかたよっていったことに一因があります。


ビクトリアでは、1861年までに、女性の男性に対する比率が70%にまで上昇していました。


しかし、21才から45才までの女性に限って比較するとこの比率は55%にとどまり、しかも20才以上の男性は、その半数以上が独身であったにもかかわらず、独身女性の比率はわずかに15%でした。


1861年に行なわれたビクトリアの人口調査によると、人口の70%以上は海外生まれの人々で占められていました。


植民地の人間100人を選び出すと、次の様な内訳となります。


オーストラリア生まれ 29人
イングランド及びウェールズ生まれ 33人
アイルランド生まれ 16人
スコットランド生まれ 11人
その他 9人


出生地が大英帝国以外の人々は、ドイツ人が10、000人、その他のヨーロッパ人が8、000人アメリカ人が2、500人という配分になっていました。


しかし、一部の者は永住していたわけではなく、一時的に居住したのみにとどまっています。

移民とその暮らし 2

ライ嬢の話では、植民地からは次の様な申し入れが最も多かったそうです。


「協会の保護を受けている女性に移住を勧め、妻を求めている男性、家庭教師を必要としている母親の下に派遣して下さい。


商店主も、学校も、病人も、協会のご努力に対しては心から感謝の意を表明し、派遣される女性を暖かく歓迎致します」。


召し使いの仕事に近い職業に就いた場合に限り、女性家庭教師達はイングランドの水準よりはるかにたくさんの収入を得ることができました。


次の手紙は、ある女性が1864年、実家に宛てて書いたものです。


「イングランドにいた頃、私のお給料は家庭教師相場の3分の1か4分の1程度でした。


(ついつい、見栄をはって半分と言いそうになりましたが)オーストラリアにやって来てからの私は、家政婦になることも厭いませんでした。


こちらでは家政婦の年収が25ポンドから30ポンド、腕の良いコックの年収が35ポンドから40ポンドです。


仮りにも名目上、子守りよりは少しはましな家庭教師と名が付く若い女性が、たかが年に10ポンドばかりのお金のために苦労すると思うと情けなくなりますが、20ポンドといえば大金です」。

移民とその暮らし

オーストラリアにおいて、ジョージ・ヒギンボサムを初めとする人々は、後にビクトリア裁判所で大活躍をすることとなります。


ヒギンボサムは、1854年、28才の時ビクトリアにやって来ました。


彼は弁護士を開業したのと同時に、新聞「アルゴス」の編集にも手を出しました。


その後1860年代にはビクトリア政界入りを果たし、国立学校のしくみを作るにあたり、法制化の領域で欠くことの出来ない重要な役割を演じました。


後年ヒギンボサムは、ビクトリア植民地最高裁判所長となりました。


この間かなりの人数にのぼる女性もオーストラリアにやって来ました。


19世紀イングランドには、中流階級の未婚女性が心惹かれる職業は、非常に職種が限られていました。


家庭教師となって勉強を教えることは、その数少ない仕事の1つでしたが、ここでも就職の口をめぐる争奪戦は熾烈を極めました。


わずかな求人に対し、志願者は殺到したのです。


「クォータリーレビュー」誌によると、


「中産階級の下に属す家庭の一部は、少しでも娘達の生活を向上させようと、彼女達に家庭教師になる為の教育を施している。


このため、あまり育ちの良くない女性が数多く鍵婦人の仲間入りをすることになり、賃金相場を下落させている。」という状態でした。


こうした恵まれない女性達の運命は、マリア・ライの関心を引きました。


ライはロンドンの事務弁護士を父に持ち、9人兄弟の長女として生まれ、この当時独身のまま33才を迎えていました。


ライはしっかりとした経歴を持つ独身女性の援助を目的とした、博愛主義に基く移民協会の先駆けとして、1862年には中産階級女性移民協会の設立に向けて尽力したのです。

中野いいとこ3

館長の三田さんは忙しい。
著書『嫁菜の花』が売れると、希望に応じて絵入りサインのパレットを持つ。
次の企画の打ち合わせの電話が入り、また話は中断する。

ご主人の聖夫さんは、脳腫瘍の後遺症で目が不自由だが、白い杖を持ち、一人でも外出される。
美術館の詳しい案内書をつくり、会場の音楽を担当し、渉外にも当たる。

ご両親である劇作家の田中千禾夫・澄江夫妻は、隣の母屋から声援を送っている。
「義父は毎日、喫茶ヌーボーシャンに来てくれて、濃いミルクティを片手に目を細めてます。マンションでも建てて、私が絵を教えてるだけなら、もっと楽だったでしょう。この美術館は、子供のいない私たち夫婦の生きている証とでもいいましょうか。家族が力を合わせて、美術館の運営に励んでいることに意義があると思っています」

お母様は山登りに、講演にと外出が多いようだが、やさしく見守るお父様には、お会いできるかも知れない。

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