移民とその暮らし 6
1850年代、ビクトリア州政府は植民地に流れ込む中国人の数を抑えようと試みましたが、結局失敗に終わっています。
こうした規制からはかろうじて逃れても、多くの中国人は他の採掘者から肉体的攻撃を加えられました。
これに対し、中国人社会のリーダーは、抗議の声を上げます。
「我々は、ヨーロッパ入の口車に乗せられ、故国には望めぬ繁栄を求め、またオーストラリア法の下に保護されるという保証の下に、祖国を後にした。
ところがこうした話と裏腹に、我々は到着以来、無教養で残酷、かつ悪意に満ちた人々により、数々の侮辱、虐待を加えられている」。
最終的に、ほとんどの中国人は帰国の途に就くことになりました。
1881年までに、ビクトリア在住の中国人の数は、わずか1万2000人にまで減少しました。
しかしゴールドラッシュで富を築いたアー・マイを含む数人は、大成功を収めることができました。
マイはメルボルン中国人社会のリーダーを務めるかたわら、有力商人、鉱山主、工場経営者、土地相場士としての地位を築き上げていきました。